この記事は完全に趣味です。
読み物として読んでいただければ幸いです。
目次
とりあえず大変だった1年目
僕が勤務していた病院は大学病院でした。
業務は透析、呼吸器ラウンド、補助循環、人工心肺、術中神経モニタリング、ダヴィンチ、デバイス、アブレーションect…
毎年新人は、透析、呼吸器ラウンド、補助循環を先に研修(夜勤は1人で全て対応しないといけないため)し、それから各診療支援に入っていきます。
当然僕だって、そのつもりでした。
しかし、術中神経モニタリングの人員が枯渇していたため、なぜが僕が入ることに。
前例がなく、研修の手順も適当でみんなが手探りみたいな感じでした。
まだほぼ大学生だった僕は、おじいちゃんMEに金魚の糞のようについて回りながら、モニタリングやオペ室の機械を勉強し始めました。
その時、別の先輩から言われたのは「大変だったらいつでも言えよ」でした。
のちにこの先輩には大変お世話になるのですが…
いや、懐かしすぎますね笑
「まぁ、なんとかなるだろう」なんて思ってたのも束の間、本当に大変でした笑
僕の同期は透析や、補助循環の研修をどんどん進め、メキメキと力をつけていました。
一方、僕はまだ研修期間なので実際にモニタリングの機械を触ることはできず、ずっと見ているだけでした。
そして研修期間が明けた途端、オペ室だけでいいと思っていたのに「夜勤研修も同時にやるように」と上から言われてしまったのです。
もちろん、その頃には1人でモニタリングにバリバリ入り始めたところです。
容量の悪い僕はてんやわんや。
「前回プライミングしたのは2週間前です」なんてことはザラにありました。
えぇ、覚えてるわけありません。
何度「まだそんなこともできないの?」と言われたことか笑
「できるわけねーだろこのやろう♡」って感じでしたね。
この頃ですかね、僕にマゾっけが出てきてしまったのは。
できないことに対しての執念が強くなりました。
「そんなこと言うなら、オペ室も夜勤も今年度でできるようになってやると」と。
いや、素敵な性格してます。
と、そんな日々が続いて時は流れ11月くらいでしたかね。
ちょっと転機が訪れます。
楽しみを見つけ始めた年末
さっき出てきた先輩の仕事ぶりを僕はよくみていました。
モニタリングを教えてくれる人だったので、この人にもよくついて回っていたのです。
その人はよく看護師や先生に絡む人でした。
視野を広く持って、看護師さんの動きに注目し「次に何がいるのか」「どうしたいと思っているのか」を読み取って、手伝ってあげるのです。
完全にMEの仕事外です笑
尿道カテーテルを入れるときにバルーンチェックしたり、弾性ストッキング履かせたり、清潔野に機械を出してあげたり…
でも、そのおかげでオペはスムーズに進むし、看護師や医師とコミュニケーションは取れるし、単純に僕は「かっこいい」と思ってしまいました。
そして「僕もこうなろう」と。
それからはとっても楽しかったです。
自然と会話も増え、看護師さんにも頼ってもらえるようになり、何より「今日はオペ室かな?」とワクワクして出勤していたくらいです。
そして、このコミュニケーションがあったから大事な友人が2人もできることになりました。
おそらく、先輩を見習っていなければ、こんなにも仲良くなれなかったと思います。
仕事場に友人がいると幸福度が700%上がると言った研究がありますが、7倍どころではありませんでした笑
2人がいたから頑張れたと言っても過言ではないほどです。
医療に対して志が高く、共に切磋琢磨できた2人。
恥ずかしいので面と向かってはこんなこと言えませんけど…
ともあれ、オペ室と夜勤の両立を目指した地獄のような日々はなんとか乗り切りました。
新人がはいってきた!
さて、4月になり僕も2年目になりました。
うちは毎年大量に採用します(離職率が高すぎて入れても入れても出ていってしまうのです。)
本当にどうにかすべきなのですが…
僕の部署には5人。
その中からオペ室に振られたのは2人でした。
新人がすぐにオペ室に入り、診療支援業務を行うのは、僕が前例となるので、僕が教育担当に。
1人は男の子。
ハキハキ話す子で物怖じしない感じ。と言う印象。
もう1人は女の子。
大人しめだけど、話をよく聞けて仕事人。と言う印象。
僕もこの頃には夜勤研修が終わっていたので、オペ室業務が多く、2人とはほぼ毎日一緒にいました。
(あ、なんかすごく懐かしい。)
モニタリングは一通り教えたら少し時間ができるので、その子についてや考え方の話など(僕の悪い癖です)たくさん話す機会がありました。
男の子は僕や、さっき言った先輩の働き方に共感してくれて、同じように看護師や医師とコミュニケーションを取るようになりました。
これで、ME兼看護師(外回り)3人目の完成です笑
ほかっておいても、自分から話しかけたり、手伝ったりしていたので、最低限の注意だけして好きなようにやらせました。
少しだけいきすぎた時もありましたが、それはそれ。
成長と共に落ち着いてくるだろうと思っています。
実際、今では僕よりもたくさんの人と話し、うまくやってくれています。
女の子の方は、仕事を一つ一つ確実にこなしてくれていました。
この子についてはまた後で詳しく話しましょう。僕のできなかったことをやってくれる子ですので。
2年の夏が転機だった
僕は就職前から、電気生理に興味がありました。
わかりやすく言えば不整脈、ペースメーカー、アブレーションに興味があったのです。
勉強会も1年目の頃からちょくちょく出ているくらいには好きでした。
それを上司は知ってくれていて、アブレーションの人員を増やそうと言うことで、僕が候補に上がりました。
ただ、一つ問題があり、実は既に「3年後くらいには辞めます」と伝えていました。
だから、僕にアブレーションの話が来た時、アブの長が「アブレーションに入ってほしいから、もう少し病院にいてくれないか」と相談してくださったのです。
とっても悩みましたが、承諾することにしました。
だってそれくらいやりたかったんですもん。自分の気持ちに嘘はつけません。
僕的には気分はルンルンです。
「いつから入れるかな」とワクワクしていました。
が、僕が本格的にアブレーションの研修に入ることはありませんでした。
理由はいろいろありますが、僕が研修に入るまでの時間を待てなかったのと、そもそも入れる気がなかったことです。
なにわともあれ、我慢できなかった僕は、自分から「もういいです」とお断りしました。
そこで、先ほど出てきたオペ室の女の子です。
彼女はアブレーションに興味があり、その頃にはオペ業務に慣れてきていました。
なので、僕が断ると同時に「彼女をアブレーションに入れてあげてください、そして僕の時のようにならないようにしてあげてください」とお願いをしました。
すごく気取って書いてますが、実際は「こんなこと言っていいんかな」と思っていましたし、
彼女からしたらいい迷惑だったかもしれません笑
(改めて考えると2年目が20年以上のベテランになんてこと言ってるんだと思いますね、反省も後悔も一切していませんが笑)
ともかく、僕ができなかったアブレーションは彼女がやっていくこととなります。
心残りがないと言えば嘘になりますが、彼女が一生懸命勉強してるところを見て「よかった」と思えます。
今でも順調に研修は進み、他の先輩方からも「よくできている」「頑張っている」と聞きました。
なんとも嬉しいことです。
そして転職を決めた12月
もともと企業で働いてみたい、外から医療に関わりたい、と言う思いが強かったですが、「もし、実際に働いてみて臨床が好きになったらそのままいよう」とも思ってました。
結論はご存知の通り転職を決めました。
「電気生理ができなくなったこと」「データサイエンスに興味を持ったこと」「人との出会いがあったこと」言ってしまえば、いろいろ重なったんです。
そして「動くなら今かな」と。
そこからは早かったです。
いろんな人に話を聞いて、悩んで、考えて、行動して、1月には内定をもらえました。
転職活動は大変ではありましたが、好奇心はその全てを吹き飛ばしてくれました。
そしてその後、僕は意外にもこの2年間で一番働くことになります。
誰よりも自部署のことを考えた半年
1月に内定をもらったので、3月からもう新しいところで働ける予定でした。
でも、僕にはどうしてもやりたいことがあったのです。
それが、教育です。
僕は割と無茶をさせられてきました。
ほとんどやったことないのに補助循環を1人で回したり、乏しい知識で透析について議論したり、やったこともないトラブル対応したり…
僕の場合たまたまなんとかなって大きな事故には繋がりませんでしたが、こんなことやっていては事故も起きかねないし、新人のメンタルが持ちません。
現にやられてしまった人も何人かいました。
と言うことで、内定先にわがままを言って半年も伸ばしてもらうことに。
どんな教育をしたかは、別記事に書きましたのでここでは割愛します。
僕は自信を持って「この半年は最も自部署について考えた」と言えます。
上の人がどう思っているかは知りませんが、下の子たちや僕に協力してくれた先輩方もそう思ってくださっていると思います。
この経験はとても貴重なものでした。
働いている時も、家に帰ってからも、考えたり試したりを繰り返して、大変なのに楽しかったのです。
おそらく、仕事が楽しくてしょうがなくなっちゃう人はいつもこんな感じなんだろうと思ったのを覚えています。
2月の時は「まだ4ヶ月もあるのか〜」と職場でおちゃらけていましたが、蓋を開けてみればあっという間でした。
そして6月・・・
教育も一通りでき、引き継ぎもして、あとは去るのみ。
最終日や、その前日はお世話になった方々に挨拶して回りましたが、多くの人が「頑張ってね」と背中を押してくれました。
中には「いなくなったら困るよ」「もっと一緒に働きたい」「寂しい」と言ってくれる方もいて
「あぁ、2年しかいなかったけど少しは頼られるMEになれたのかな」と感慨深くなりました。
また、地元を離れるので中学からの友人や、高校からの友人も祝ってくれ、嬉しかったです。
(なんか感想文見たいですね笑)
僕の中で多くの気づきがありました。
一つは僕が初めて教育した2人の存在が予想以上に大きかったこと。
もちろん、他の3人も大事な後輩ですが、やはり一緒にいた時間が多かったので情が移ったんでしょうか笑
彼の方は、幅広くコミュニケーションをとり、本当に楽しそうに仕事をしています。
僕が辞められるのは、彼がちゃんとモニタリングの業務を僕と同じレベルまでできるようになってくれたらかと言っても過言ではありません。
ちょっぴり行きすぎちゃったり、ミスに対して鈍感なのは直してほしいと思いますが笑
オペ室のMEとして、頑張ってくれることでしょう。
そして、彼女の方は夜勤もモニタリングも電気整理もこなせるようになってしましました。
僕の面倒な話も「うんうん」と聞いてくれ、「私もちゃんと教育していきます」とまで言ってくれました。とっても頼りになる後輩です。
自信がなさそうなのは相変わらずですが、後数年もすれば立派なMEになるでしょう。
陰ながら期待しています。
もう一つは一緒に働く人の大事さ。
確かに業務に関して思い返すと懐かしさを感じるものですが、それ以上に一緒に働いた方達が印象的です。
先にも出てきましたが、特に親しくなった看護師2人との思い出は大事なものになりました。
1人は男の子。
チャラチャラして、人タラシなところもありますが、医療に真面目でオペ室の同期で一番勉強していたんではないでしょうか。
将来のことや、医療について語り合ったこともありました。
恋バナや、お互いに告白の手伝いをしたこともありました笑
そんなに昔のことではありませんが、懐かしい記憶です。
彼はフライトナース(ドクターヘリに乗る看護師)になりたいそうです。
もし、目標が変わっても彼ならなりたい自分になれると思います。
もう1人は女の子。と言うより年上なので女性ですね。
医療人として、病院の同世代で最も尊敬できる人です。普段は抜けに抜けていますが、職場となるとテキパキ動いてみんなに頼れる人でした。
そしてなんと言っても努力家です。僕が頑張って勉強できたのは彼女の頑張りを目の当たりにしていたからでしょう。それくらい医療に対して真摯でした。
彼女はやりたいことが多くあるようです。病棟・救急その他諸々。
勝手なイメージですが、何をしても高いレベルまで辿り着きそうな人です笑
この2人とはいつかもっと高いレベルで一緒に仕事をしたいと思います。
負けないように僕も頑張らなければ!
他にも書きたいことは山ほどありますが、キリがなくなりそうなのでこの辺りでまとめに入りますね。
まとめ
大学生の頃本で「何をするかよりも、誰とするかが大事」という文を見ました。
その時は「何を当たり前なことを」と思ったものです。
現に、病院に勤める時「臨床ってどんな感じなんだろう」「実際に働いて病院か企業か決めよう」と考えていました。
確かに医療の現場を生で見た経験は大きかった。
どんなことをしていて、どこに問題があって、どう対処しているのか。
最先端の技術も知識も、高いレベルの医師、看護師、MEも見ることができました。
この経験は次の職場で目一杯使ってやろうと思います。
そのために病院に勤めたんですから。
しかし、人生においては違いました。
病院というのはただの箱。
その中でどんな人と出会い、仲良くなって、どんな関係を築いていくのか。
その方が後の人生に大きな影響をもたらすと思いました。
実際に、病院でできた大事な看護師の友人2人とは、一生関わり続けたい。
お世話になった先輩には、受けた以上の恩返しがしたい。
可愛がった後輩が大きくなる姿を見たいし、大きくなった彼ら彼女らと仕事をしてみたい。
どれも、僕が勤めた病院でなければ得られなかったものです。
本当にこの病院に勤めてよかったと思います。
最終日に勤務してた時はそんなことなかったですが、今は目頭が少しだけ熱いですね。
長々と書きましたが、要は「関わる人が人生を彩る」ということでしょうか。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
それではまた。
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